2014年5月9日金曜日
家族との別れ
2008年11月に不動産会社が倒産した直後、取引先であったE社(長野県佐久市)の社長T氏から突然電話をいただいた。熊本に来ているので会いたいとの事。E社は保険業界ではベンチャーともいえる会社で、起業当初の苦しい時期に当社との代理店委託契約締結によって随分助かったと後日T氏が語ってくれたが、そんな思いもあってか私の身を案じわざわざ熊本まで来てくれたのだ。その夜お会いしてお話を伺ったところ、もしよければE社に来てくれないかとの事だった。突然の倒産、そして残務整理や自己破産等の裁判、将来の生活への不安等でほとほと疲れきっていた私にとっては、前途に光明を見出いだす思いでT氏からのお申し出を有り難くお受けした。全く畑違いの仕事であり、ましてや長野へ行くことを考えると不安がなかったわけではない。しかし家族の生活を考えれば悠長に迷いや不安などと言っている余裕はなく、仕事の話をいただけたことにただただ感謝するばかりだった。子供たちの学校の関係で、家族ともども移住することは無理と判断し、単身で長野へ行くことを決断。こうして家族との別居生活が始まった。
2014年4月30日水曜日
青天の霹靂
実際のところ自転車操業で凌ぎながらの崖っぷち経営といってよかった。他業者との合併の話もあったが当社への銀行融資が順調に進んでいた際に裏で妨害工作を行っていたとの噂が流れるなど信頼関係に疑問が生じたためお断りしたこともあった。結局のところ資金援助の道を断たれた今、順調に伸びていた賃貸管理業に望みを託し、少しずつ辛抱しながら健全化への道を歩む決意せざるを得なかった。2008年11月某日、折しも支払い決済予定日に、支払いに充てるため借入を予定していた業者から、決済日当日手違いにより資金が用意できないとの連絡が入ったのだ。まさに青天の霹靂とはこのことだろう。なんの心の準備がないままに突然の倒産に茫然自失となった。とりわけ30数年に渡りゼロからコツコツと築き上げてきた会社が一瞬にして無に帰してしまうなど誰が予想できようか。H氏の無念さは私の思いを遥かに超えるものだったことは想像に難くない。バブル崩壊による不良債権処理の解消という目的のために足を踏み入れたベンチャー事業。結果的に多くの方にご迷惑をかけてしまったが、何事にも挑戦していくH氏の姿勢や意欲を見ていると、やはり並の人間にはできない起業家としての資質を備えているのは間違いない。いまだにそのオーラは消え入ることなく光を発し続けている。
2014年4月28日月曜日
誤算
一代で築いた会社の社長、所謂オーナー社長のほとんどが陥るといっていいのが唯我独尊。自分に批判的な意見や忠告を述べる社員には耳を貸さずに遠ざける。自然な感情の流れとはいえ、うまく回っている時はいいが、一歩間違えると大変な目に会う事になる。H氏も例にもれずベンチャー事業への投資に疑問を抱く幹部の意見には耳を貸さず、ひたすら不良債権解消を夢見てベンチャー投資にのめりこんでいった。しかし、製品不良によりベンチャー事業が暗礁に乗り上げ、この投資の穴埋めが原因で本業の資金繰りが困難を極めるようになり、日増しに経営を圧迫していった。地方銀行H銀行に資金融資の交渉や、H氏の後輩が経営する福岡の大手建設会社に資金協力をお願いしたものの結果的にはうまくいかず、融資先が断たれた状況の中で高利の貸金業から資金を調達しながらなんとか経営を繋いでいた。賃貸管理業そのものは順調に伸びていたものの直ちに経営を立ち直らせるまでには至らず、それには相当の時間が必要だった。辛抱しながら少しずつ経営状態を正常に回復させていくしか道は残されていなかった。
2014年4月23日水曜日
順風満帆
実の父は4歳で亡くなり、その後母が再婚したが、母の夫である私にとっては養父とも言えるH氏は、不動産業をそれこそ裸一貫で起業し、三十年近くの歳月を経て地元で1,2を争うまでの企業に成長させた男だ。石橋を叩いても渡らないというぐらい何事にも慎重であり、地道に積み重ねてきた本人の努力もさることながら、祖母の姉が子供がなく、跡継ぎがいないため、養子となって改姓した直後から運気が上がったかのように仕事が順調に進んでいった。私が手伝う頃には管理戸数4000強、他業者からは追いつくべき目標や模範とされる程の会社に成長していた。コンピュータの扱いに慣れていた私は、当初から賃貸管理システムの運用開発や管理等を一手に引き受けて賃貸管理や営業支援の仕事をメインに取組んでいた。9年ほどの間に管理戸数は8000戸を優に超え、賃貸管理業としては順調な伸びを示していた。しかし、バブル期に銀行の後押しもあって手掛けた300戸を超える大型宅地造成開発事業の販売戸数がバブル崩壊とともに当初目標を大幅に下回り、良くある不良債権となって経営を大きく圧迫した。そのまま地道に本業でしのいでいれば後日行われた銀行の債権放棄により、不良債権問題は一気に解決するはずだったが、赤字補てんを急ぐあまりに、H氏はベンチャー事業に手を出してしまったのだ。所謂環境ビジネスともいうべき事業内容で、大学の研究室との連携やマーケットもグローバルだったため、これが成功すれば不良債権も一挙に解決するはずだった。
2014年4月22日火曜日
Jazzピアノへの回帰
15年程の音楽業界での生活。その後半はほとんどJazzとは縁のない歌伴やアレンジの仕事に没頭していた。この間結婚して子供四人を授かったが、家族を食べさせることがどうしても先行してしまい、とても自分の好きな音楽をやるなんて時間も余裕もなかった。帰郷して音楽とは縁のない業界で新たに仕事を始め、ある程度仕事にも慣れて生活にも余裕ができた絶妙なタイミングにJazzピアノの依頼があったのもあながち偶然とは思えない。何年もJazzピアノ演奏とは離れていたこともあり、できるかどうか自信はなかったが、折角のお話を断るのも失礼と思い受けてしまった。確かアフロブルーというライブハウスだったと思うが、ライブ当日は幾分緊張しながらの演奏だったように記憶しているが、Jazzから長年離れていたこともあって全てが新鮮だった。これをきっかけに定期的にいくつかのライブハウスで演奏する機会に恵まれ、再びピアノの魔力に引き込まれていくことになる、、、。
2014年4月18日金曜日
故郷で待ち受けていたもの
1999年8月に家族(6人+猫一匹)で熊本へ帰郷。9月24日に九州を襲った台風18号は熊本にも大きな被害を残した。その頃は入居予定のマンション完成を待っている間、実家の裏にあった倉庫の二階を改造して住んでいたが、夜中に瓦の飛ぶ音が聞こえてきて、次第に建物全体が振動して揺れ始めた。あわてて家族全員を叩き起こして一階に止めていた車の中に避難したが、もし家が潰れていたら車もろとも全員ぺしゃんこになっていたかもしれない。今更ながら想像するだけで背筋が寒くなる。引っ越した矢先の強烈な台風の歓迎は、ただただ驚きと恐怖の一夜を鮮烈に脳裏に焼き付けた。今思えば、それはあたかも10年後に訪れるある出来事を暗示していたのかもしれない、、、、。それから3年程は、新しい仕事に慣れるのに必死でJazzとは縁のない日々を送っていた。そんなある日、一本の電話が鳴った。Jazzピアノのトラ(代役)を依頼する電話であった。
それを境に、火に油を注ぐが如く、一気に眠っていたJazzへの炎が燃え上がる事になる、、、。
それを境に、火に油を注ぐが如く、一気に眠っていたJazzへの炎が燃え上がる事になる、、、。
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