2008年5月27日火曜日

ドラムソロ

さて、話を音楽にもどそう。JAZZという悪魔に出会った高校時代、同級生はほとんどビートルズに熱中していた。私が通っていた高校は、無線通信士や無線技術士の養成を目的とする学校で、生徒も九州各県から集まってきていた。一学年100名ほどの人数しかおらず、女性にも門戸を開いてはいたが、入ってくるのはほとんど男子ばかり。全校生徒総数400人弱の男子校が運命の出会いの舞台となったのだ。
私は中学時代ブラスバンド部でトロンボーンを吹いていたということもあり、その頃はほとんど有名無実化し、内実は音楽好きの集まりとなっていた吹奏楽部に入部した。部室があった建物は2階建てで、明治時代にでも建てたのではないかというぐらい古い木造の校舎だった。まだ入部する前のこと。放課後、部室のある校舎前を通って帰っていくのだが、いつも聞こえてくるのがグルーブするドラムソロの音だった。それまで感じたことのない 心地よさが私の心を虜にした。そして運命の日、その音にひき付けられるかのように部室のドアの前に立っている自分がいた。

2008年5月24日土曜日

父の事

昭和27年の冬、九州は火の国で生まれた私。父は駅前の小さな映画館を経営しており、とはいっても自分で立ち上げたわけではなく、祖父の命令のもと、わけのわからないままにまかせられていたといっていい。祖父は戦後のどさくさの中で財をなしたらしく、市内に数ヶ所映画館やバチンコ店を経営していた。後のデパート火災で大量の死者を出して有名になった某デパートは、祖父の兄が経営しており、父の弟が取締役として名を連ねていたことを思い出す。そんな環境のもとで育った父は、将来の跡継ぎとして可愛がられたようで、大学を出てまもなく、何の修行もしないまま映画館経営をまかされてしまった。それが原因かどうかは別として、小さい頃から体が弱く、喘息の持病をもっていた父は、26歳の若さで4歳の私と母を残して逝ってしまったのである。
悲しきかな父との思い出は葬式の思い出しか残っていない。一人っ子だったせいか大勢の人がいるのがうれしかったらしく、妙にはしゃいでいたのを思い出す。なぜか喪服姿の母の泣いている姿が子供心に美しく思え、そんな気持ちが複雑にからんだせいかもしれない。小さな子供だったとはいえ今思えばなんと残酷なことをしたのかと思う。 私にとってなんの思い出も残さず逝ってしまった父だが、彼がこの宇宙で生きていたという証が、今ここにこうした形で公開されていることを知ったらなんと思うだろう。ましてや彼のDNAが4人の孫に引き継がれたことなど知る由もない。びっくりする父の顔を想像することさえできない自分がもどかしい。

2008年5月23日金曜日

出会い

Jazzに出会ったのは高校一年、、、。もちろん以前から聞いてはいたが、よく解らないうるさい音楽程度の認識だった。その頃はビートルズ、ベンチャーズ全盛の時代。私も例に漏れずベンチャーズのテケテケテケにぞっこんの少年だった。小学校の頃は、田舎町の小さな楽器屋のショーウィンドウに飾ってあったエレキギターに見惚れて、学校帰りの道すがら、その楽器店の前をため息をつきながら通り過ぎていった記憶がある。当然にエレキギターなんて買えるお金もなく、叔父からもらったボロボロのギター にイヤホーンをくっつけてマイク代わりにし、真空管式ラジオなんて今時の人にはわからないだろうが、無理やり繋いで音を出すなんて芸当をやっていた。電気の知識もなく、時々感電しながらもエレキギターに魅せられた一心での探究心は、我ながらあっぱれだったと今は懐かしく思い出す。
さて、話をもどすが、高校時代にもうひとつ、重要な音楽の潮流が生まれていた。ボサノバである。この音楽が私とJAZZとの出会いを作ってくれた水先案内人であり、原点となった音楽である。