2009年11月14日土曜日

ピアノと集中力

その頃の我が家というと、母は再婚したが再婚相手の養父は事業に失敗。年の離れた種違いの妹と弟がいて生活は大変だったと記憶している。この高校を選んだのも国立で授業料が安いからというのが本当のところだ。そんな中でY君を通してJAZZという悪魔に出会ってしまったのが運のつき。完全に憑りつかれてしまったのだ。自転車で通学していたが、普通より30分ほど早く家をでて、音楽室に直行。お昼は弁当をもって音楽室に。授業が終わったら即音楽室へという生活が3年間続くことになる。
高校に入って1年目、丁度その頃はボサノバが流行っていて、特にイパネマの娘が私のお気に入りだった。ピアノのバッキングコードの響きと同じ響きを出すためにはどうやったらいいのか、ピアノの鍵盤のヴォイシングをいろいろ変えながらレコードの音に近づけていく作業を延々とやっていたように思う。今のような音楽専門の雑誌や音楽スクールもなかった時代で、教師と言えばレコードの音だけ。耳だけが頼りだったのだ。今の若い人から見れば随分無駄な事のように思えるかもしれない。でもそのおかげで耳の訓練になったし、集中力を養うこともできたように思う。3年生の終わり頃になると、夜、イヤホーンしながらふとんの中で好きな音楽を聞いてるんだけど、気に入ったフレーズがあると一緒に歌いながら覚えちゃう。(結構細かいフレーズなんかもあったな。夜中にうるさいってよく家人に怒られた。)翌日の朝、学校のピアノで弾いてみるなんてことをやっていた。今はとてもできないけど、若い頃の脳ってやり方によって信じられないほどのパワーを引き出せると思う。3年間ここまでやれたのもY君との出会いから始まった、ピアノ、音楽、Jazzの持つ魅力に尽きるのだろう。

2009年11月7日土曜日

朝、昼、夕、夜中、ピアノ漬けの日々

一応ブラスバンド部に所属していたので、音楽室は自由に使えた。アップライトピアノが一台置かれているだけの部屋。ビートルズとボサノバのサウンド発見の旅が始まろうとしていた。が、すぐに最初のハードルが立ちはだかった。コード分析のための唯一の楽器であるピアノ。鍵がかかっていて弾くことができないのだ。学校に頼んで鍵を借りてくればいいだけの話なのだが、何故かひねくれものの性で何とか自分で解決しようとしたらしい。人間必死になるとなんとかなるもんだ!なんてよく年寄りが言ったりするけど、この時はまさにズバリその言葉通りになったのだ。何を思ったか譜面台をじっとにらめつけていた私は、譜面落ちを防止するL字型の留め金を外すや否や、長いほうの先をピアノの鍵穴のサイズに合せて曲げたのだ。その時間は一分もかからない早業で、自分でも何事が起こったのか咄嗟にわからないといってもいいぐらい相当思いつめていたように思う。(若干誇張されてますけど)
なんとカチッという心地よい音とともに見事ピアノの蓋が開いたのだ。その時の感激は今だに忘れられない。(これって罪になります?時効ということでご容赦を)
それからというもの、私の人生に朝、昼、夕、夜中、という概念はなくなった。まさに音楽という言葉に取ってかわった音楽漬けの人生が始まったのだ。

ピアノの鍵

そんなひねくれものの私だが、他人を傷つけるような悪い方向に屈折していないだけ良かったと思う。でも自分にとっては、この性格めちゃくちゃ損だと思う。解っちゃいるけど直せないってやつ。今思えばこの性格のせいで随分チャンスを逃がしたのではないかと思うけど。でも隣の芝生はよく見えるっていうから、あまり自分を卑下してもだめかな。この性格だけど、いい人にはいっぱい巡り合ったし、ずいぶん助けられたことも事実だから。親に感謝、皆さんに感謝、、、、。

というわけでY君だけど、とっても優しい性格でクラスのみんなにも可愛がられていた。この頃携帯用のテープレコーダーとかレコードプレーヤーとかあって、とてもじゃないが私の家なんかでは買えない代物をY君は寮に持ってきていたのだ。私はそれこそ毎日というように寮へお邪魔して、彼が集めたいろんなジャンルの音楽をむさぼるように聞いた。その中にボサノバやJazzが隠れていたのだ。

私はビートルズの奏でるサウンドとボサノバやJazzのそれが何故こんなに違うのか不思議だった。なんとなくコードというものが違うらしいことはわかったが、音楽学校も専門誌もない時代に、その構成など知る由もなく、まずそれを探究することから、私のピアノの鍵人生が始まることになる。