2014年4月30日水曜日

青天の霹靂

実際のところ自転車操業で凌ぎながらの崖っぷち経営といってよかった。他業者との合併の話もあったが当社への銀行融資が順調に進んでいた際に裏で妨害工作を行っていたとの噂が流れるなど信頼関係に疑問が生じたためお断りしたこともあった。結局のところ資金援助の道を断たれた今、順調に伸びていた賃貸管理業に望みを託し、少しずつ辛抱しながら健全化への道を歩む決意せざるを得なかった。2008年11月某日、折しも支払い決済予定日に、支払いに充てるため借入を予定していた業者から、決済日当日手違いにより資金が用意できないとの連絡が入ったのだ。まさに青天の霹靂とはこのことだろう。なんの心の準備がないままに突然の倒産に茫然自失となった。とりわけ30数年に渡りゼロからコツコツと築き上げてきた会社が一瞬にして無に帰してしまうなど誰が予想できようか。H氏の無念さは私の思いを遥かに超えるものだったことは想像に難くない。バブル崩壊による不良債権処理の解消という目的のために足を踏み入れたベンチャー事業。結果的に多くの方にご迷惑をかけてしまったが、何事にも挑戦していくH氏の姿勢や意欲を見ていると、やはり並の人間にはできない起業家としての資質を備えているのは間違いない。いまだにそのオーラは消え入ることなく光を発し続けている。

2014年4月28日月曜日

誤算

一代で築いた会社の社長、所謂オーナー社長のほとんどが陥るといっていいのが唯我独尊。自分に批判的な意見や忠告を述べる社員には耳を貸さずに遠ざける。自然な感情の流れとはいえ、うまく回っている時はいいが、一歩間違えると大変な目に会う事になる。H氏も例にもれずベンチャー事業への投資に疑問を抱く幹部の意見には耳を貸さず、ひたすら不良債権解消を夢見てベンチャー投資にのめりこんでいった。しかし、製品不良によりベンチャー事業が暗礁に乗り上げ、この投資の穴埋めが原因で本業の資金繰りが困難を極めるようになり、日増しに経営を圧迫していった。地方銀行H銀行に資金融資の交渉や、H氏の後輩が経営する福岡の大手建設会社に資金協力をお願いしたものの結果的にはうまくいかず、融資先が断たれた状況の中で高利の貸金業から資金を調達しながらなんとか経営を繋いでいた。賃貸管理業そのものは順調に伸びていたものの直ちに経営を立ち直らせるまでには至らず、それには相当の時間が必要だった。辛抱しながら少しずつ経営状態を正常に回復させていくしか道は残されていなかった。

デュオアルバム「and we met」がJazzPageで紹介されました。

デュオアルバム「and we met」がJazzPageで紹介されました。
森泰人さんともどもとても素晴らしい評価をいただき感謝しています。


 

2014年4月23日水曜日

順風満帆

実の父は4歳で亡くなり、その後母が再婚したが、母の夫である私にとっては養父とも言えるH氏は、不動産業をそれこそ裸一貫で起業し、三十年近くの歳月を経て地元で1,2を争うまでの企業に成長させた男だ。石橋を叩いても渡らないというぐらい何事にも慎重であり、地道に積み重ねてきた本人の努力もさることながら、祖母の姉が子供がなく、跡継ぎがいないため、養子となって改姓した直後から運気が上がったかのように仕事が順調に進んでいった。私が手伝う頃には管理戸数4000強、他業者からは追いつくべき目標や模範とされる程の会社に成長していた。コンピュータの扱いに慣れていた私は、当初から賃貸管理システムの運用開発や管理等を一手に引き受けて賃貸管理や営業支援の仕事をメインに取組んでいた。9年ほどの間に管理戸数は8000戸を優に超え、賃貸管理業としては順調な伸びを示していた。しかし、バブル期に銀行の後押しもあって手掛けた300戸を超える大型宅地造成開発事業の販売戸数がバブル崩壊とともに当初目標を大幅に下回り、良くある不良債権となって経営を大きく圧迫した。そのまま地道に本業でしのいでいれば後日行われた銀行の債権放棄により、不良債権問題は一気に解決するはずだったが、赤字補てんを急ぐあまりに、H氏はベンチャー事業に手を出してしまったのだ。所謂環境ビジネスともいうべき事業内容で、大学の研究室との連携やマーケットもグローバルだったため、これが成功すれば不良債権も一挙に解決するはずだった。

2014年4月22日火曜日

Jazzピアノへの回帰

15年程の音楽業界での生活。その後半はほとんどJazzとは縁のない歌伴やアレンジの仕事に没頭していた。この間結婚して子供四人を授かったが、家族を食べさせることがどうしても先行してしまい、とても自分の好きな音楽をやるなんて時間も余裕もなかった。帰郷して音楽とは縁のない業界で新たに仕事を始め、ある程度仕事にも慣れて生活にも余裕ができた絶妙なタイミングにJazzピアノの依頼があったのもあながち偶然とは思えない。何年もJazzピアノ演奏とは離れていたこともあり、できるかどうか自信はなかったが、折角のお話を断るのも失礼と思い受けてしまった。確かアフロブルーというライブハウスだったと思うが、ライブ当日は幾分緊張しながらの演奏だったように記憶しているが、Jazzから長年離れていたこともあって全てが新鮮だった。これをきっかけに定期的にいくつかのライブハウスで演奏する機会に恵まれ、再びピアノの魔力に引き込まれていくことになる、、、。

2014年4月18日金曜日

故郷で待ち受けていたもの

1999年8月に家族(6人+猫一匹)で熊本へ帰郷。9月24日に九州を襲った台風18号は熊本にも大きな被害を残した。その頃は入居予定のマンション完成を待っている間、実家の裏にあった倉庫の二階を改造して住んでいたが、夜中に瓦の飛ぶ音が聞こえてきて、次第に建物全体が振動して揺れ始めた。あわてて家族全員を叩き起こして一階に止めていた車の中に避難したが、もし家が潰れていたら車もろとも全員ぺしゃんこになっていたかもしれない。今更ながら想像するだけで背筋が寒くなる。引っ越した矢先の強烈な台風の歓迎は、ただただ驚きと恐怖の一夜を鮮烈に脳裏に焼き付けた。今思えば、それはあたかも10年後に訪れるある出来事を暗示していたのかもしれない、、、、。それから3年程は、新しい仕事に慣れるのに必死でJazzとは縁のない日々を送っていた。そんなある日、一本の電話が鳴った。Jazzピアノのトラ(代役)を依頼する電話であった。
それを境に、火に油を注ぐが如く、一気に眠っていたJazzへの炎が燃え上がる事になる、、、。

2014年4月14日月曜日

母の事

半年ほどの病院での闘病生活の後、母が平成26年1月19日に天に召された。亨年86歳、波乱に満ちた人生だったが、どんな思いで最後を迎えたのか今となっては知る由もない。自分の事より他の人を優先する気づかいの人であった。私の父は、私が4歳の頃病気で他界したが、その後、母は再婚した。それこそ幾度となく天国と地獄とも言える境地を味わった母。最後は地獄から天国への光が差し始めた矢先に、現世では待ち切れなかったとみえて早々に本当の天国へ逝ってしまった。どんな逆境にもへこたれることなく、少なくとも私の前で泣いている姿は見たことがない。7人兄弟の末娘として、軍人だった厳格な父に厳しく躾られながら、戦中戦後の辛い日々を育った母は、他人から見れば逆境ともいえる境遇に陥ろうと、些かの動揺もなく在りのままに受け入れる強さをもっていた。そんな母が一度だけ私の前で取り乱した事があった。今でもその時の事を思い出すと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。二人だけで共有していた思いは永遠に私だけのものとなった。いつの日か天で再開したおりに二人して思い出すことになろう。天の母は26歳で他界した父と語らっているのだろうか、、、。亡くなる一ヶ月程前に、病室から見える公園に亡くなった父が立っていると見舞に行っていた私の家内に告げたそうだ。半世紀ぶりの再会、父の喜んでいる姿が目に浮かぶ。

2014年4月11日金曜日

一時休音

15年程の音楽業界での生活を思い返せば、実力主義の厳しい世界で、雇用契約書を交わすなんてことはほとんどなく、単なる口約束で仕事をいただき、信用度は音楽的表現能力の高さのみ、明日の保証など全くない特異な世界である。そんな中で生きていくには実力は勿論だがなんといっても人間関係が大事であり、特に横の人間関係の良しあしで仕事の広がり具合に違いが生じていく。その関係も音楽ジャンルや活動の場によって違いがあり、クロスすることはめったにない。歌謡界、演歌、J-POP、アイドル、Jazz等それぞれのジャンル毎に閉鎖的な人脈図が広がっている。そんな中で必死に自分のステージ(収入)を上げていくことに奔走し、本来の動機がだんだんと薄れていくことに気づくことなく歳を重ねていった。ふと立ち止まってみればJazzの世界と大きく乖離した生活。音楽への情熱は変わらずとも、やはり看板タレントの人気の凋落とともにリストラの波はここにも押し寄せる。首になる前に自ら辞めて音楽的自立を試みるも、膨らんだ生活レベルを維持するには転職の道を選択せざるを得ず、郷里の実家の仕事を手伝うことに。15年に及ぶ憧れの音楽業界に別れを告げる。

2014年4月9日水曜日

Jazzとの乖離

初仕事である渋谷東急屋上のビアガーデンには、場所柄、M君の多くの友人が飲みに来てくれた。その多くが音楽関係者であり、ギタリストの角田忠雄氏との出会いをはじめ、その後の私の人生を左右する方との出会いの場でもあった。お名前を忘れてしまったが、有名演歌歌手Kのピアニストもその中のお1人。もう辞めたくて後任を探しているとのことだった。なんとラッキーな出会いだったことか!M君に感謝である。3ヶ月間限定だったビアガーデンの仕事からいきなり演歌歌手のバックピアニストの仕事をいただけるなんて幸運の何物でもないだろう。そこからタレントサポート行脚の旅が始まった。韓国の演歌歌手Cさん、台湾出身の歌手Oさん、アイドル歌手だったSさん、演歌の大御所Iさんなどなど十数年に及ぶバックバンド生活。この間に自己のバンド「命我神」を結成し、オリジナルを中心に都内のロッピ、アルフィー、バランタイン、次郎吉、横浜のエアジン等で八尋洋一、本田珠也、吉尾公弘、佐野康夫などとライブ活動をやった時期もあったが、なにせ集客力がなく、3年ほど活動したあと自然解散してしまった。その後結婚し、子供も四人授かったが、金銭的にも余裕のある安定した生活は確保できたものの、それと引き換えに当初の夢や目的であったJazzとの関係は大きく乖離してしまっていた。

2014年4月4日金曜日

30歳にしていざ音楽業界へ!

ボストンから戻って5年後、遂にまわりの反対を押し切って右も左をわからないままに音楽業界へ飛び込んだ。合理化による無線通信業務の廃止が目前に迫っていたこともあり、無線通信士としての将来的な展望が望めないことも決断を後押しした要因であった。20代は自分の好きなことに挑戦、そして30歳にしてサラリーマンへ転職!の逆パターンはよく聞くが、少々無謀とも言えるこの決断、職場環境の変化もあることながら、今となって思えばよくやったなあと少々冷や汗もののヤング山口君である。とは言っても全くつてがなかったわけでもなく、ボストンで同室だったSちゃんとはいろいろ相談に乗ってもらっていたし、音楽仲間も紹介してもらったりしていた。その頃銚子にあったライブハウス㏈にたまたま東京からバイトで来ていたドラムのM君と意気投合し、音楽仕事のことなど相談したところ、彼のネットワークを駆使して東京での初仕事を見つけて来てくれた!
なんと渋谷東急屋上のビヤガーデンの仕事だ!一瞬怯んだが選んでいる立場ではないし、M君に感謝し有り難く引き受けた。この仕事でなんと今もお付き合いいただいている長野で活躍中のギタリスト角やん(角田忠雄氏)と知り合うことになるとは実に世の中不思議な巡り合わせがあるものだ。

2014年4月2日水曜日

ボストンの想い出

1977年にバークリー音楽院のサマースクールに参加したのだが、同室のSちゃんはもう立派なキーボード奏者で柴田はつみのバック等バリバリ東京で仕事をしていた。参加者の中には有名はギタリストHさんやドラムのYさんなど相当ハイレベルな方達がいて驚かされた。毎晩のように近くのライブハウスへ通い、その頃音楽院の日本人講師としてタイガー大越さんや齋藤純さんが我々の授業のサポートや通訳をしてくれていたが、毎晩のように市内のライブハウスへ連れて行ってくれた。ある夜、全盛時代のスタッフのライブがあって、ライブ終了後に齋藤純さんがガッドに紹介してくれ握手したことは一生忘れられない思い出だ。まだ黒髪ふさふさ、目がぎらぎらの頃のガッド。ステージでのガッドのイメージとは違って意外と小柄で優しい笑顔が印象的だった。そして忘れてはならないのは、エヴァンスとの再会であった。東京でのコンサート以来4年ぶりのライブをボストンで見ることができた。エディ・ゴメス、エリオット・ジグモンドとのトリオ!さぞ、満杯の客席と思いきや、ガラガラ!一緒に行ったSちゃんと思わず顔を見合わせた。スタッフのライブが超満員だったせいか、尚更その差のあまりの違いに唖然とした事を覚えている。しかし客席のまばらさとは裏腹に演奏そのものは熱く、次から次へと溢れるエヴァンスのアドリブフレーズに釘付けになった。CDで聴く演奏とは違って、弾き過ぎではないかと思えるほどの激情に溢れたエヴァンスの演奏は、近寄りがたい神々しさの中に深い孤独感を漂わせているように感じた。しばらくしてこのメンバーでの編成は解散し、マークジョンソンとの最後のトリオ編成となる。そして3年後の1980年9月15日に彼との永遠の別れを迎えることになる。